力学とは物理の基本であるにも関わらず、また最初に物理を嫌いにしてしまう大きな壁です。
私の高校生のとき、先生から「最初の中間テストは誰でも100点取れる」と言われていたにも関わらず(しかもそこそこに勉強はしてました)、70点程度でショックを受けた記憶があります。
高校3年生のとき、あまりにも授業がつまらなくて授業で渡された参考書の答えの周りに小説を書いては周りの友達に見せ、反応をうかがい皆の予想を聞きながら、そうでない方向へ話を進めていくという私にとっては楽しい創作の時間になっていました。
今思うと何故コレを買ったかが疑問なんですが、そのとき、妙に惹かれたんですね。現在の標準問題精講は別の著者が書かれているようですそんなことをしてては当然成績が上がるはずもありません。5月の模擬テストの偏差値が47くらいだったのにショックを受け(実際は他の教科も散々なものでしたが…)、本屋へ行き「標準問題精講」という前田和貞先生が書かれている問題集を買ってみました。
コレ、びっくりするんですよ…。今思ってもまったく「標準」ではない!驚くほどのハイレベルな問題ばっかりで、正直全く手が出なかったんです。でも、私はその解法を丸暗記したんです。何故かその解法が分かり易い気がしたんですね。そうしたら、1月後のテストから偏差値が異常に上昇したのです。
ただ、正直な話、誰もがこの方法で成績が上がるわけではありませんし、当然「標準問題精講」をお薦めは出来ません。なぜならあくまでそれら(難系)の参考書は、国語力があり、原理を読み解く力があり、精神力がある人でなければ理解できないからです。
ちょっとここらで昔話をしたいと思います。私が大学生だったころ、ある高校2年生の家庭教師をやっていました。中高一貫校に通うその生徒は150人中、140番程度ととんでもない位置にいた子でした。
授業を始めてすぐに気付いたことは、この子は全く勉強をする習慣がついていないということです。そこでまずは1週間の間に15分程度で出来る宿題を出して、やってくれば褒める…という行程を経ながら徐々に宿題を増やしていき、3ヶ月後には1日5時間やらないと終わらないような宿題を出したのです。その内容はとにかく問題とその解答を暗記するというものでした。
宿題の量が1日5時間程度の量になったころ、学校の成績は10番内に入る程度まで上昇していました。校外模試でも平均偏差値が60をちょっと超える程度まで上昇していたのです。そこで私は自分の経験から、この勉強方法を後半年続けたら恐らく偏差値は70を楽々突破するだろうと思っていたのです。しかし、そううまくはいかなかったのです…。
半年続けても成績はずっと現状維持のまま。模試の偏差値もずっと現状維持…。「どういうことなんだろう?以前よりも相当問題数もこなしたし、もう70超えてもいい頃なのに…」
何が悪いかわからなかったある日、その子の隣に座って数学の問題を一緒に解いてみることにしました問題自身は以前教えたものを応用するタイプのものです。いつもは「解らない」と言われると、すぐに解き方を教えていたのですが、その日はその子がどう考えるかをしっかりと見極めようとしたのです。
私 :「じゃあ、この問題を解いてみてくれる?」
生徒:「………解りません。」
私 :「…ん?まぁ解らないって言っても最低何かの公式が思いついたり、以前解いたものとどこが似てるとかそういう思いとかはあるよね?何か立式できるでしょ?書いてごらん。正解じゃなくていいから…」
生徒:「ん〜…」(10分ほど白紙)
私 :「…えっ!?…いや、何も思いつかないわけはないでしょ?」
生徒:「いえ、何も思いつきません」
驚きでした。いや…本当に…。正直な話、その子が悩んで全く(本当に全く)手が出なかったその問題は、その前の週にやった問題の質問形式をちょっと変えただけで、言ってる内容は全く同じだったのです。そして当然その子はその問題を毎日1回ずつノートに解いていたのですそういう宿題を出していました。だから手が出ないなんてことは私からしたら、到底あり得るはずがなかったのです。
しかし現実に解けないという現象が眼前に広がっている…、わけが解らなくなった私はとりあえず先週と同じ系統の問題を出しました。そうすると完答は出来ませんでしたが、どうやら手は動くようです…。
帰宅途中のバイクの上で、ずっと悩んでいました。自分だったら形を変えられても同系統の問題ならすべて解けるようになってたのに、何故あの子は出題形式まで同じでなければ解けなかったのだろう?自分には出来てあの子には出来てないことは何なんだろう?
大学の授業の合間も、他のバイトをやっている間もずっとそのことだけを考え、考え…。そんなある日、普段自分が勉強するときにやっていること、当たり前だと思っていることを色々考えてみたら、一つの考えが浮かんだんです。
それが「問題中の原理または普遍性の抽出」だったのです。自分自身がたくさんの問題演習を中心に勉強して、それによって成績が上がっていたので、たくさん問題を解くことによって成績が上がっていたと勘違いしていましたが正確には正しいのですが…、実際はたくさん問題をこなすことにより、その同系統の問題に流れる原理または普遍性を見出し、それを他の問題に当てはめていたからこそ成績が上がっていたのです。
そして、次の家庭教師の日に確かめてみましたが、やはりその子は全ての問題をただ暗記していただけだったのです。ショックでした。ただ暗記して、つながりを探さないそういう勉強の仕方をやる子がいるということにです。そして思ったのです。学校の先生ってそういえば「どうしてこの公式はこのような形になっているのか」「どうしてこの問題はこのように考えて解いたのか」ということを、覚えることとして教えていたなぁ…と(少なくとも私の先生は…)。
先生方はきっと「原理抽出型」の人間なのだろうと。だから意味はいいから覚えてたくさん問題を解けとおっしゃっていたのだろうと。そしてたくさんの問題をやることによって成績が上がっている現在の学校の教育制度における優秀とされる皆もきっと同じように「原理抽出型」の人間なのだろうと…。
しかし見方を変えると、逆に今の学校の教育制度において劣等生とされている生徒は「教え方」、「考え方」、「見方」さえ変えればもしかすると…という考えに行き着くのにそう時間は必要ありませんでした。
それを実行することは、正直簡単なことではありません。実際、このような考えに至った大学院生の時分に、同じ研究室の友人とこのことについて話したのですが、その友人からは「誰だってそういうことは考え付くし、そしてそれを現実に実現することが不可能だから教育が今の形態なんだよ!」と言われました。確かに…。
彼らは頭が良かった。私の友人たちは本当に出来が良かったので、きっと与えられた公式をすんなり利用出来たし、応用も出来たのでしょう。しかし私はもともと文系と言われた人間だったので、恐ろしく出来る理系の連中と、「理系」として張り合うためにはどうしても「原理」を抽出し、「想像力」によってそれを膨らませ、「意味」を与え、「納得」しなければ先に進めなかったタイプの人間だったのです。
そして折角苦労して手に入れた数々の知識を独り占めしておくのもどうかと思い、本当は出来るはずなのに、教育システムにつぶされそうな人の役に立てば…と、忙しい仕事の合間を縫って、Web上に私の目で見た学問の世界を公開しようと思ったわけです。
「教え方・考え方・見方を変えることはできない」と言ってくれた友人に感謝です。私の反骨精神はそういう「既成概念は崩せない」といったタイプの言動により激しく燃え上がるからです。